おはにちばんは!
今日もがむしゃらに私らしく。
今回もよろしくお願いします。
タイトルを読んでどう感じましたか?
「常識知らず・実践できない」は世に出てはいけない。
でも最近はそんなこと気にしなくなって、どうして気にしていたのかな?と思うようにさえなりました。
今回は「最低限できるならいい」をテーマに、元自己肯定感激低の私が考え方のお話をしていきます。
- 「常識知らず」は悪いこと?
- 常識ってなんだろう
最後までチェックすると「人付き合いが苦手」「人の目が怖い」の気持ちが少し和らいで、表に出ることが楽しくなるかもしれませんよ。
「常識知らず」「実践できず」
年代にもよりますが「常識知らず」と軽々しく当たり前のように口にする方がいますよね。
私はその言葉を常に浴びてきたので、「自分は常識知らずなんだ=ダメなんだ」と思うようになりました。
常識って教わるの?
常識は教わるものですか?
それとも大人を見て、時に注意されて自然に身につくものですか?
社会に出て親になって…。
周りのする常識的な行動や発言を私はできず…。
自分と周りを比べて勝手に情けなくなり、人と関わりたくないと思う気持ちは強くなりました。
自分なりに努力した
もちろん、「大人なんだから、親なんだから」と見様見真似で常識的行動や発言をしようとしたこともあります。
でもね、できないんですよ…。
最初こそできても二回目以降の凡例が分からず行き詰まって悩んだり、考えず「当たり前」として自然にできているであろう方々との差を感じて…。
やってダメで現実を知るのって、やらないよりダメージが大きくて…
悪循環どころの騒ぎじゃなかったかもしれません。
できることをすればいい
そんな「常識知らず」な私ですが、今は「できることをすればいい」という考えに至りました。
たどり着くまでの道のりは本当に長かったけどね…。
たとえば挨拶
私は「先日はお世話になりました」といった過去の出来事に対するお礼を挨拶に加えることができません。
別れ際の挨拶も気の利いたことが言えなくて…。
でもね、自然に「こんにちは」といった挨拶は出るし、「ありがとう」の類はその都度伝えられます。
「先日は…」と言われれば「こちらこそ…」と返事もできます。
私はきっとそれで良いんです。
感謝することがあったその時に「ありがとう」と心から言えるなら、それでいいじゃないですか。
言葉が出ないなら、メールや手紙など文字で伝えてもいいじゃないですか!
伝えたい気持ちを分割することなんてできないから「今日は半分、後日半分」なんてわけにいかない。
「言うのが当たり前だから」とただの言葉(いや、文字?)として後日言うのも違うでしょ?
たとえば贈り物
「何かを貰ったら必ずお返しをする」ということが私はどうにも苦手で…。
本当に仲良くさせてもらっている相手ならいいんです。
普段からの気持ちを合わせてお返しできるし、時に「お互い様」と思えるから。
こちらから贈るにも、お返しをするにも考える時間が楽しいし。
でも、近所とか親戚とか必然的に付き合うことになるだけの相手からの突然の贈り物は…本当に無理。
家で採れた野菜とか戴いた物のお裾分けとか…。
感謝の気持ちばかりとは限らないこともありませんか?
正直、実家や目上の親戚、上司という理由だけでお中元・お歳暮を贈るのも嫌で…。
(金銭的負担も大きいし…)どうせ贈るなら「本当にお世話になった」と思える関わりがある人に贈りたいです。
でも、付き合いの深さよりも立場だったり、返してもらって当たり前という感情だったりが常識的で普通なんでしょう…。
だって貰った感謝よりも、面倒だとかお返しどうしよう…って悩む気持ちの方が大きい関係に意味を感じないから…。
※突然の…に限ります。お祝いなどきっかけがあるものは別です。お中元・お歳暮はお互いに負担になるからと、親戚間では「なし」にすることにしました。
それで「お返しがない」とか「気が利かない」とか思う相手なら、きっと自然に離れていきます。
変わらずに「一方的」を続ける方はきっと見返りを求めず、本心から贈ろうと思ってくれてる相手だと思うので、こちらの見方も変わるでしょ?
「お返し面倒」と思う相手が「いつもありがとう」と思える相手になるきっかけの一つかもしれません。
常識ってなんだろう
そもそもなんだけど、「常識」って何?と大人になって常々思っています。
※子供の頃は私も「みんなと同じことをする・考える=常識」と思っていたんだろうけど…
同じ日本語でも方言があって違う地域の人には通じないことだってあるくらい…。
「当たり前の習慣や考え」だって、年代や地域によっても違います。
考え方や感じ方だって人それぞれで同じなんてことはないのに「常識」という括りは当たり前のようにあって、自分の中の「常識」から外れると「常識知らず」と言われ…。
「命や生活を脅かさない」のは絶対的前提として…
世の中の人みんなが同じ考えになるのは難しい…いや、不可能だけど、「常識はそれぞれで自由」という定義は浸透してほしいな〜。
「常識知らず」と言われ続け、自身でも常識知らずであることを疑わないくらいの暗示がかかっていた私だけど、少しずつ解けました。
「みんなこうするから」とか「誰かに言われたから」とか、そんな理由で自分の気持ちを無視しなきゃならないのが常識なら、私は一生「常識知らずでいい」です。
相手は関係なく自分自身が「したいからする」であれば、晴れやかで気持ちいい行動ができると思います。
まとめ
挨拶が言葉足らずだったり、お返しができなかったり…。
※他にもあるけど、全て一方的な押し付けだったと今は思ってます。
それを咎められ「常識知らず」と罵られることが多かった私。
「自分に素直に生きればいい」とか「常識はそれぞれ」とか…
そんな考え方は「今だからできること」であって、過去の私に伝えてもきっと伝わらないし、理解しようとさえしないと思います。
これを読んでいる方の中にも「わかってるけどできない」と感じる人が絶対いると思うんですよ。
私も本当にそうで、「常識」に対しては周りに合わせなきゃ…ってやってるくせに、自分を楽にする部分に関しては周りの意見を拒絶するみたいな…。
でもね…
私は抜け出しました。
うつ病を経験したことがない人が「うつ病患者に対する声掛け」を見聞きしただけでただ実践しても、響くものなんて多分ありません。※経験談
心が伴わないからなのかな…?頭で考えてはダメなのかも。
だから私は、抜け出したからこそ伝えられることがあると思って本心のまま、「こころ」の記事は書き続けていきたいと思っています。
今じゃなくていい。
いつか抜け出した時、「ああ、本当だった」と思ってくれる人が一人でもいれば…
そう思っています。
「常識は自分の中だけにあるもの」ですよ。