おはにちばんは。
今日もがむしゃらに私らしく。
今回もよろしくお願いします。
感染予防を続けながらの生活も2年半が過ぎ…
やっと行動制限が緩和されてきて少しづつ元の生活に戻っていく気配を感じつつありますね。
最近は数年前までは「当たり前のようにやっていた」ことを久しぶりに見ることも増えました。
しかし、今年小学生になった娘と私で、感覚や認識の違いを知ることも多くあります。
今回はたった3年、されど3年…。認識が変わった!?というお話です。
- コロナ禍になる前の生活を知らない??
- この3年で変わり、当たり前になっていたこと
- 自分の子供時代との違いで心配になること
最後までチェックすると、「あるある!」と思ったり、「なるほど」と思うことが出てくるかもしれません。
娘はコロナ禍前を知らない
娘は今年、小学1年生に。
コロナが国内でも確認され、全国一斉休校をはじめ自粛生活が始まった2020年春は、幼稚園年少〜年中進級の時期でした。
年少の記憶は少ない
娘がコロナ禍前の「過去の当たり前」の中で、集団生活を経験したのは年少の1年弱のみです。
物心がつくのが3歳頃と言われていますが、実際に覚えている年少の記憶はほんの一部。
入園式はもちろん、春の親子遠足や冬の発表会の内容を含め、ほとんど覚えていません。
ということで娘にとっての当たり前の生活は「コロナ禍の今」なのです。
試食販売での行動
感染防止の観点から、試食・試飲といった販売促進方法は行われなくなりましたよね。
しかし、先日…
久々に娘と買い物に出た休日。
試食販売が行われていました!!
少し観察してみると、商品には興味を持つものの試食は遠慮している人が大半…。
娘の記憶の中では「試食」は初めての経験のようで、かなり興味を示し…。
少し悩んだものの、OKを出しました。
もちろん娘は喜んで試食を受け取りましたよ!
スタッフさんも嬉しそう♪
しかし、驚いたのはそこから…
手に持って、ニコニコな目をしながら、私の後ろに付きました。
それは移動を待っているスタイルであり、食べる気配が全くないのです。
「食べないの?」と声をかけると
「え!?ここで食べて良いの??」と本心からの驚きの声色返答が…。
スタッフさんと二人でびっくり…。
その場で食べることへの抵抗感も結構強めで、口に入るや否やマスク装着と一瞬でした。
「めちゃくちゃ美味しい!!」と飛び跳ねて喜ぶ様子は微笑ましくて可愛かったし、思わず商品購入してしまいましたが複雑さはありました。
ノーマスクに対する違和感
マスクを外して生活しようという動きは日本人こそまだまだですが、海外では当たり前になりつつあるようですね。
娘はテレビ画面に映る日本に来た外国人がノーマスクなのを見て違和感が凄いようです。
感染予防のために、「手洗い・うがい・マスク」と伝えてきたつもりでしたが、マスクがどう感染予防になるのか伝わっていなかったのかもしれません。
当たり前のように「家を出るときはマスク」で生活してきた娘にとって、マスクは洋服やメイクと同じような認識で「しなきゃ恥ずかしい」と感じるよう。
ノーマスクの人を見かけると法律違反でもしているかのような騒ぎで「なんで」「どうして」「絶対忘れないよね!」と質問責めにされます。
確かに「マスクだとメイクが楽でいい」と思うことも多いですが、夏は暑いし息苦しさを感じることも…。
目元だけでは相手の表情は判断しきれないし、人違いも起きませんか?
そんな時、「マスクなしに戻りたい」と思う私。
報道番組などでも「マスク無しは恥ずかしい」と感じる人が増えていることに触れることが多いですね。
感染予防が必要なくなっても、マスクを外すことに抵抗がある…
マスク生活になってから、新生活が始まった方などは「お互いに正確な顔を知らない」可能性も…
行事に対する期待度の低さ
これは私もなのですが、行事などのために準備・努力をする中でふと「中止になる可能性」が浮かび、本気を出せないというもの。
感染拡大の影響で予定されていた行事が「縮小や大幅変更」「中止」ということは多くありました。
通常開催予定とされ準備したのに直前で中止になり一切使わないなど、金銭的無駄も多くありました。
※普段遣いできるようなものなら良いけど、まず使わないようなものを準備させられた時も…
予定調整して参加・見学できるようにしても、中止や見学不可に変更されるとか…。
娘も「すごく楽しみ」とルンルンで準備・練習したものの多くが中止で、「見てほしい」「来てほしい」は見学不可に変更される…
その絶望感を重ねるうち、「中止になる可能性」を重視して行動するようになってしまい…。
本当に嫌なことでも「やるしかないから頑張る!!」と決心した後に、中止になり「もう絶対に頑張らない」と自暴自棄になってしまうことも…。
「頑張ったら〜しようね」といった約束も、頑張ること自体が無くなってしまうことを考えると安易にできず…。
※中止になった時の代替案は軽いものになりがちだし…。
「頑張っても報われない」の前に「報われる場所がない」ともいえる世代…。
そして「他人との協力」よりも「他人と比べる」「無い物ねだり」になっていて…。
そこに個人の性格や受け止め方の違いが加わると、手が付けられなくなることが心配で。
「○さんは○ができるけど私はできない」
「私は○ができるけど○さんはできない」
その違いも協力したら欠点を補って目標達成に繋がるかもしれないことに、協力する機会が減ったことで気付けないかもしれないな…なんて。
変化を「なんとなく」受け入れたくない
「きっとすぐに元の生活が送れるようになる。」
最初はそんな風に考えて、感染対策も自粛生活も頑張ってきたけれど、1年、2年と過ぎ…
いつの間にかこの生活が「当たり前」になり、生活も認識も変化していたことに気がつく最近。
私達が子供の頃は…なんて10年単位での変化は当たり前であり、語れば多少の寂しさはあれど「懐かしいね」と穏やかに語れることでした。
でも感染症対策で急激に且つ厳しい変化を求められた後に語る3年前程の過去との変化は、穏やかではないですよね。
誰もが哀愁を感じながら語るあの頃は、もはや別次元かも…とさえ思ってしまうほど。
「ママたちが子供の頃は〜」と語ることが今と大きく変化した理由が、「文明の進化」によるものではないことを思い知った最近です。
国産治療薬の緊急承認という話題も入ってきましたし今後、3年前と同じ基準で生活ができるようになったとして…。
あなたは「あの頃」の「どんなところ」を「絶対に復活してほしい」と思いますか?
そしてこの3年の変化の中で「これは良かった」と思うことは、どんなことですか?