おはにちばんは
今日もがむしゃらにわたしらしく
今回もよろしくお願いします。
完璧
そもそも、「完璧」ってなんなんでしょう?
完璧主義って言葉は確かに存在しているし、それができたら素晴らしいかもしれない。
でも「完璧」もまた「普通」と同じように個人で違う感覚かもしれません。
ミスをしない
「ミスしない」というのは確かに完璧を語る上で一番最初に来ることかもしれません。
だって「ミスが一切ない」ってことが完璧そのものですから。
でもね…「ミスがない」って判断はどこで決まるのでしょうか?
自分に与えられた仕事を全て間違いなくこなせばミスがないと言い切っていいのでしょうか?
不可能を示さない
「できない」と言わず何でも笑顔で引き受けて仕上げてくることが完璧ですか?
周りから見れば「すごい人」で「完璧」かもしれません。
でも、本当に「無理なく出来るから引き受けて仕上げた」のでしょうか?
「できない」と言ってはいけないと心のどこかで思って余裕がなくても引き受けたのかもしれません。
自分の時間を、もしかしたら睡眠さえ削って必死に仕上げた可能性だってあります。
「結果が完璧」なら全て「完璧」になるのでしょうか?
いつでも安定感
表裏なく常に穏やかで何事にも安定しているように見える人は完璧でしょうか?
安定感のある人は見ている側にも安心感を与え、「理想の完璧」を見せることもあるかもしれません。
しかし誰だって人に見えられない顔があるし、表に出せない感情があります。
安定感のある人はストレスを溜めない方法を持っていて表と裏のコントロールが上手いかもしれません。
とはいえ完璧とはいえない裏がある以上、「完璧」と言い切っていいものではないのではないでしょうか?
表と裏
誰にだって表と裏があって、表の顔だけで接しなければいけない場を知っています。
裏の顔を出せばすべてを否定されるような世の中ですし。
でも実際は「裏の顔こそが本当の自分」だったりしませんか?
よそ行きで誰からも認められる表の顔を作るのに無理をしている人はきっと少なくありません。
例えば表は完璧で…
例えば職場ではかなり優秀で完璧で誰からも慕われるような人でさえ、それを24時間1年365日維持できるかといえば違うでしょう。
人間必ずどこかにしわ寄せが来るから、日常のどこかでミスやエラーが起きているかもしれません。
表には出ないところで誰かに頼って助けてもらって自分を維持しているかもしれないし、維持できずに隠していることもあるかもしれない…。
誰かの支えがあって表の完璧が保てているなら、その人だけの力で「完璧」なわけではないのは確かですよね。
裏だけに触れる人…
表はどんなに素晴らしくても裏が最悪という人だって実際にいます。
それを承知で表を守るために支える人もいるかもしれないけど、裏だけに触れる側からすれば決して「完璧」なんて言葉は出てこないでしょう。
「完璧には程遠いんだよ」なんてため息が混じるかもしれない。
でも人間、それでいいんですよね。
誰かと支え合って「完璧を目指す」のが生き物の形であって、1人で完璧を目指せるなら自分以外の人の存在さえ不要ですから。
完璧を求めても…
どんな人でも実際には完璧なんかじゃないんです。
完璧なんてありえない。
だからこそ、完璧を求める必要はありません。
無理に求めても良いことはないですから、「自分のまま」でいいのではないでしょうか?
空回りして前が見えない
「完璧」に捉われて必死になりすぎると空回りして目の前の「当たり前」から見えなくなりますよ。
不思議ですよね。
目の前を完璧にするためになぜか遠くを見過ぎて目の前が見えない…。
「灯台下暗し」とはよく言ったものです。
あなたが「完璧を目指す理由」を忘れては何の意味もありません。
完璧を目指すより、完璧を目指したい理由を守るために余裕を持つ方が心には優しいんですよ。
誰かを突き飛ばしている
自分が本当に完璧を目指すなら、支えてくれる人や気にしてくれる人を必ず突き飛ばして突っ走ることになります。
だって、そんな誰かが与えてくれる部分まで自分で全てこなすことが「本当の完璧」なんですから。
「完璧を目指す自分に手出しをするな」ということになるわけで…。
誰かの仕事や自信さえ奪うことになるのです。
大切なのは「結果」より「過程」
私は最近ではありますが本気でそう思えるようになりました。
「結果」だけを重視するより、結果を出すまでの「過程」が全てにおいて重要で、過程を飛ばして見た結果に価値なんてないとさえ…。
最初から完璧は不可能
どんなに完璧に近いと言われているものですら、最初からそうだったわけではなく、失敗し試行錯誤を繰り返した成果ですよね。
最初から完璧なものがないとはいいませんが、それは成功に繋がる選択を「偶然」一度もミスらずできたというだけ。
同じ人が別のことで再び成功の選択を一発でクリアする確率はかなり低いのではないでしょうか?
コツコツ積み重ねた結果が「完璧」
失敗しながらコツコツ積み重ねて最後にたどり着いた答えこそが「完璧」なのではないでしょうか。
実際には「どれだけ失敗した?」「何度無駄にした?」なんて経過を突いて、完璧には程遠いというような人もいるかもしれません。
でも、自分は「いつか届く理想の姿」を求めて必死に努力するわけですし、その途中の失敗を「失敗」なんて思う必要はありません。
誰かと「失敗の回数の少なさ」を競う必要なんてないし、向こうは成功、自分は失敗だって経験値になるのだから気にする必要なんてないでしょ?
失敗知らずの人が急に失敗した時、対処法を知らず自分より真っ白になるかもしれない。
失敗を積み重ねて経験したことで対処法のヒントを多く得られるのなら、それも完璧の一部になるでしょ?
自分を隠す必要はない
完璧じゃない自分を恥じて隠して無理をする方は多く居ます。
でもそんなことする必要はないんですよ。
隠さなきゃいけないような環境を作る方が実際には悪いのではないでしょうか?
断る勇気・晒す勇気
無理に繋がることを頼まれた時に「できない」とはっきり断ること、できて当たり前と言われていることができないこと、苦手であることを隠さないこと。
それが当たり前にできる勇気を持つことが「自分らしさ」に繋がります。
それぞれのスペース
持てる荷物の量や重さがそれぞれ違うように、心や考えの許容スペースにも個人差があります。
「このくらいでへこたれるなんて」
「どうしてあの人のように完璧を目指せない?」
そんな風に悩む方が間違いかもしれません。
元々持っているスペースは多少広げることこそできても、何倍にも広げるようなことはできない可能性のほうが高いです。
自分のスペースの大きさを知って受け入れる。
狭くなったら何かを手放さなければならない事実を拒否しない。
そうすることで「誰か」との違いも「自分の一部」だと思えるようになりませんか?
まとめ
完璧なんて本当はないからこそ、自分らしく生きようと伝えたくて書いたつもりです。
正直、自分でも伝えたいことを文章にできてはいません。
しかし、「自分にとっての完璧が全ての完璧とは限らない」ことだけは考えてみてくださいね。
全てが完璧だったなら、人は争わないし世界は平和じゃないですか?
それぞれの考えが違えば完璧も違うんです。
正確な球体を作る仕事があり一切歪みのない品を作った、完璧だ!と思ったとして…。
丸こそ何よりも美しいと思っている人の手に渡れば「素晴らしく完璧な品」でしょう。
でも逆に角が多いものこそ何より美しいと思っている人の手に渡れば全く角のない球体は「ありえないくらいの失敗作」でしかありません。
ね。
完璧って曖昧でしょ?
自分の目指す完璧は誰にとっての完璧でしょう?
全てに対する完璧にならないのに無理する必要なんてありませんよ。
さあ、力を抜いて自分らしく過ごしましょうね。